・貸金業務の起源

農業や漁業、工業、商業において、それらを糧にして生活をしていく場合、まず、種まきを行い、それを育成させ、実ができるとそれを収穫し、収穫したものを譲渡して、生活に必要なもの(現代社会におけるお金)を得ます。しかし、収穫するまでの間の生活はどうすればいいでしょうか?また種まき用の種はどうすればいいのでしょうか?
そこで、すでに食料や種などを他の人から分けてもらい、収穫した中からもらった分より少し多めに返す。というモデルが考えられます。
この”少し多め”の部分が今でいう利子に相当します。こうする事によって、食料などを分けてもらった方は生活が成り立ち、分けた方も利子相当分をもらうというメリットがあります。

このようなシステムは貨幣経済が始まる前から存在したと言われ、農業、漁業など本業とは別に付随事業として行われていました。

また、旧約聖書には「ものを貸すとき、借りる人の財を預かり、貸したものが返ってくるまで預かったものを返さない」というシステムの記述があり、この頃すでに本業としての”貸金業”や”質屋”の事業形態をとっていたという説もあります。

・日本の質屋の始まり
日本では、藤原定家の日記「明月記」に質屋についての記述があり、貨幣経済が発達した鎌倉時代が質屋の始まりだと言われています。もっともそのルーツは遣唐使の時代にまで遡るとも言われています。「質屋」の名称は江戸時代からで、鎌倉時代には「庫倉」、室町時代には「土蔵」と呼ばれていました。

質屋は戦前・戦後、日本国民の融資の場として活躍しました。銀行の融資における担保は不動産中心でしたが、当時の質草(いわゆる担保)は、貴金属、宝石類をはじめ、背広(スーツ)などの衣類、布団、なべなどの動産だったので、生活に密着した金融として重宝されました。背広や布団などはカンタンに買えるものではなかったので、質草として価値は充分にありました。

しかし、生活が豊かになるにつれて、動産の質草としての価値が下落し、「質流れ」が続出したため、質屋業も衰退していく事になります。今では、格安チケットなどの販売や高級ブランド品の買取などに活路を見出す傍ら、従来の形式で頑張っている質屋も少なからず存在しています。

・消費者金融の始まり
質屋の衰退によって、新しい貸金事業が必要になってきます。1960年ごろ、「勤め人信用貸し」「団地金融」という名称で、無担保・無保証・即時融資のサービスが先物取引発祥の街、大阪で誕生します。サラリーマン金融・消費者金融というニュービジネスの誕生です。

1960年当時、サラリーマンは花形の職業であり、終身雇用・年功序列による将来の安定的な収入が保証されている事で、信用度を高めました。そしてもうひとつの人気の生活スタイルが団地住まいでした。団地で生活するためには相当な所得が必要だったので、団地居住者の信用度が高かったのです。

つまり、サラリーマンである事、団地に住んでいる事が高い信用度として評価され、無担保でも即時融資が可能だったのです。サラ金は、その便利さから利用者が急増。担保が「モノ」から「信用」、業態が「質屋」から「消費者金融」へと変わっていきました。

因みに、1960年ごろの金利に上限は、出資法(1954年制定)109.5%であり、1983年の改正までその金利が適用されていました。当時の日経平均が1,500~2,000円だった時代のお話です。

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